3月11日おはようございます


早起きすると良いこともあるもので、今日明け方の格別に美しい月を見ることができました。

きれいな形の月の輝きもさることながら、時折月を隠す雲に月の美しさが一層際立ちました。童話世界の中をスポットライトを浴びながら学園を目指しているような気分でした。

昨日から公立高校入試が始まっています。明日から始まる国公立大学・後期試験同様、受験生皆さんの健闘を祈念いたします。今日も校長先生からメッセージが届いています。

3月11日

海星中学高等学校の皆さんへ

校長 武川 眞一郎

おはようございます。今朝の気温は8度 晴れです。昨日から8度も下がり、寒い朝になりました。

今日は東日本大震災が9年前に発生した日になります。犠牲になられた方のご冥福をお祈りしますとともに、復興に向けて努力している被災者の皆様に一日も早い平穏な生活が訪れますことをお祈りもうしあげます。

本日 午後2時46分が地震発生時刻です。その場で黙とうを捧げてください。

 

昨日(3月10日)、新型コロナウィルス感染症に罹患された方が57人と発表されました。私の記憶では、3月8日が35人、3月9日が27人と減少傾向がみられていたので少しばかりの安心感が私にはあったのですが、昨日の罹患者が前日の倍になっております。まだまだ、気を緩めずに対応しなければなりません。

今日はなぜ、臨時休校なのか考えてみたいと思います。
今回の休校は政府の方針が新聞発表され、ある意味急を要する状態で臨時休校になりました。いろんなご意見があるとは思いますが、臨時休校の処置は第一に小中学生・高校生の命に係わることだからです。生徒の皆さんに罹患してもらいたくない。だから、不要不急の場合以外、自宅にいてくださいとの理由からです。もう一つは、この新型コロナウイルスは感染しても無症状の方もおられ、症状がでるまでの潜伏期間が長いという特性があると聞いています。ですから無症状感染者や感染後の潜伏期間中での活動(外出)で周囲の人への感染を防ぐためにも、自宅にとどまるようにとのお願いです。罹患するリスク、感染を拡散するリスクの2点で、自宅にとどまってくださいと言うことです。

改めて、この病気の特性を理解して不要不急の外出はしないでください。
また、基本的には普段学校があっている際の授業時間中には自宅にいること、外出をしなければならない用事がある場合は、外出時間を限定し保護者に許可を得てください。その際、必ずマスクを着用してください。帰宅した際は必ずうがい・手洗いを励行するようにしてください。

皆さん一人一人の心掛けで、この感染症は必ず防ぐことができます。

規則正しい生活(睡眠、食事、運動)を行い、感染症に罹らないように注意して休校期間を過ごしてください。

 

臨時休校中は次のことを守り、感染しないように注意してください。

(1)人の集まるところへの外出はしないでください。
(2)基本的に自宅で過ごすようにしてください。
(3)自宅では、咳エチケットや手洗い等の感染症対策を行うようにしてください。
(4)起床時と夕食後 必ず検温して記録をつけるようにしてください。
(5)部活動は禁止です。
(6)自宅では、規則正しい生活をし、復習などを含めて家庭学習を行うようにしてください。
(7)先生方は、学校にいますので何か相談することがあった場合は電話で問い合わせてください。登校する場合は、事前に学校に連絡をしてから登校するようにお願いします。
(8)中学卒業式は行いますが。規模を縮小して行います。その他の行事は中止にします。
(9)休校中の学校から皆さんへの連絡はメールメイトとHPになります。HPをこまめに見るようにしてください。

昭和11(1936)年の石畳

さて今日のTOP写真。本日の振り返りはおなじみの通学路です。この石畳道は、どこの道だかわかりますか。

この道は、活水学院と海星学園の間を通る石畳階段の道です。

赤い屋根が活水学院・手前の白い建物は海星体育館

原子爆弾の影響(爆撃後の火災など)が比較的少なかったこの界隈は、江戸・明治時代の幅のままで道が残っている箇所が多々あります。この石畳もそうなのですが、少し興味ある資料を見つけました。

『領事館の丘』として知られていた東山手については昨日紹介させていただきましたが、その後東山手は『教育の丘』『学校の丘』と趣を変えていました。

明治の時代からもともとあったこの石畳階段の道でしたがが、本格的に整備され長崎市の道(十人町と大浦をつなぐ)として活用されたのは1936(昭和11)年からという海星中学校時代の文献記述(海星八十五年)が出てきたのです。それによると…

「入り組んだ細道は正式な道なのか、個人の地所なのか、その区別さえ不明確な個所が多かったのである。それやこれやで、このあたりでは住民と通行人たちとの間にしばしばトラブルが起こったりしていた。

そこで市は、この一般市民には全く利用価値のない海星校地内の私有道路を海星へ譲り、その換え地として、四年前に海星が鎮西から買収した北の端、つまり活水と海星とが堺を接している所に、十人町と大浦をつなぐ市道を作ろうと計画した。」

それが昨年(1935年)の秋のこと。海星としては大賛成で早速実測したところ、市有道路の方が四十七坪八合だけ広かった。そこで海星は六百九十七円を支払った。それがこの日なのであった。(1936年1月25日)

市長さんは新しく開通する道路も石畳にしたいからといって、海星所有となった道路の、あのすばらしい、五島石をごっそり持っていってしまった。現在、海星と活水短大(当時)との間にある眺望のすばらしい石畳道路が、この時に美しい石畳道となったのである。

もっともその一部は明治時代からあった。現在のかたちとなって全通したのがこの年(1936年)のこと。

※写真は、東山手の景観。