125年後にフランスから


全国的な寒波がまだ続いているようですが、今朝の長崎市内気温は7℃。

そうか立春を過ぎ、今の時分は『雨水』。来月になれば陽気に誘われ土の中の虫が動き出す、もう『啓蟄(けいちつ)』時分だなと気付かされます。

今時分の旬の行事と言えば、さかのぼること18世紀・江戸時代中頃の「お伊勢参り」。自由な旅行が許されていなかった当時でしたが、お伊勢参りだけは通行手形が認められていました。

一生に一度の庶民の夢。季節の良い春は、特に大賑わいでした。しかしながら江戸から片道約15日ほどかかる長旅。お金もかかり好奇心だけではなかなか腰が上がらない夢の旅。腰を上げてしまえば、貴重な旅ゆへに大阪、京都へと足を伸ばしたそうです。

綿密な計画と、行楽ながら求められる経済力、そして一生に一度という決意と希少性から生まれる尊い価値。

フランス管区長様

昨日、マリア会フランス管区長 ジャン=マリー=ルクレルク氏が海星学園を訪れました。氏は早朝から職員室に足を運ばれ、私たち教職員に声を掛けて下さいました。

ジャン=マリー=ルクレルク氏はマリア会ヨーロッパゾーン議長を務められ、現在アメリカ・デイトン大学に留学されています。

日本を訪れる機会があり、今回マリア会・海星学園にいらっしゃいました。

1789年の大革命は、フランスを恐ろしい暗黒と痛ましい道徳的廃頽(はいたい)へと追いやった。

シャミナード師はこのようなフランス社会を正しく導くには、キリスト教的世界観に立った正しい知識と道徳を青少年に授けることが肝要だと信じ、1817年、学校教育を主な事業とするマリア会を創設した。

 

ジャン=マリー=ルクレルク氏からはフランス語で話をいただき、フランス語に精通する坪光理事長が同時通訳、私たち教職員は氏の言葉に耳を傾けました。

マリア会の聖地フランス。

興味深く感じたのは、マリア会・海星初代校長バルツ師が長崎を最初に訪れたのも、奇しくも1891(明治24)年、同じ2月です。

当時は鉄道がまだ早岐(佐世保市)までしかきていなかったので、バルツ師はおそらく汽船・航路で長崎を訪れたとされています。

昨日足を運んで頂いたジャン=マリー=ルクレルク氏は坪光理事長に出迎えられましたが、明治のバルツ氏を出迎えたのはテイシェ師。当時長崎の人口は約6万あまり。勿論それは、おくんちに踊りを出す地域だけの人口でしたが、それでも当時長崎は九州では一番の都会でした。

昨日の久しぶりに暖かくなった陽気も手伝って、昨日のジャン=マリー=ルクレルク氏が初代校長バルツ師の長崎初訪問と重なりました。

当時の長崎。

古い歴史を持つ出島や新地、館内、広馬場、梅ケ崎、常磐、大浦、松ヶ枝、東山手、南山手と外国人の居留地は広く、その中の大浦町一か町だけを取り上げて見ても、そこの住民835名中、日本人はたった6名。

「ほとんどが外国人です。」と、バルツ師は出迎えてくれたテイシェ師に説明を受けました。

ジャン=マリー=ルクレルク・フランス管区長様が、おそらくそう伝聞されていた長崎・海星で迎えた朝。

記しておきたいのはマリア会が訪れた当時、北興の山峡に深く広がり浅春の薄がすみに彩られていた浦上地区。

厳しい迫害の苦悩を強い信仰の力で打ち払いながら生き抜いてきた古いキリシタンの子孫達が暮らしている地域なのだと出迎えたテイシェ師が話すと、バルツ師は一層目を輝かせながら聞いたそうです。

バルツ師が種をまいた126年後。長崎の地で私たちに熱く語ってくださるジャン=マリー=ルクレルク氏。

史実にはこうあります。

大浦天主堂付設神学校の日本人神学生達たちの真摯な態度がとても気持ちよかった。そう記された、その中に

「幼いころプチジャン師の教えを受けたという青年がいた。プチジャン師を大先輩として尊敬していたバルツ師は、そのような青年がいる長崎をひどく身近なものに感じた。」という一説があります。

※プチジャン神父…1865年、大浦天主堂で『信徒発見』の歴史的出来事に立ち会ったフランス出身カトリック神父。

遙か昔にまかれた種。

バルツ師が東京から長崎へ向けて出発したのは1891(明治24)年2月6日。長崎に着くと、2月だというのに菜の花の盛りだったとあります。

南山手のデンマーク人の住宅前の石畳に散り敷いているリラの花びら。その花から受ける印象はまさにヨーロッパそのものであった。バルツ師が感じたもの、そう…それは旅愁ではなく郷愁であった。

南山手の丘に立って、眼下に紺青の潮をたたえ、大船小船の群れている港を見下ろしている姿。

マリア会が200周年を迎え、海星が125周年を迎えた今年度。

フランス管区長 ジャン=マリー=ルクレルク氏を迎え、今日の海星ブログは海星創立の1年前を振り返りました。

 

※写真は、昨日の様子。