1945年 8月9日その1


海星・第11代校長 川上延一郎先生
(日本マリア会における最初の日本人校長)

国語科・橋本国廣先生

【国語・漢】昭和17(1942)年ー昭和57(1982)年。橋本先生が海星に奉職している時に発行された『海星八十五年史』が手元にある。はじめに先生はこう記されている。

「海星は設立当初から昭和十三年まで記録は全てフランス語であった。海星の歴史をまとめる困難さが、そこにあった。(中略)フランス語に堪能な現校長中山利喜太郎先生(当時)がマリア会総長シムレール師の著書の中から、その部分を抜粋し、翻訳して下さった。本書の第一章、マリア会日本へ、がそれである。

困難な史実

第二の困難は原爆前後四年間の足跡をたどることであった。昭和十九年以降は会誌「海星」も、卒業アルバムも、生徒会名簿さえ作れなかったし、学級日誌も書き残されていないのである。止むを得ずわたし個人の日記を唯一の確かな資料とした。昭和十九年、二十年の記事に四年生五年生の学校生活の有様が詳しいのは、わたしがその学年の担任だったからである。

原爆前後数ヶ月間、学校を中心とした人々の生活については、その当時在職し今なお教壇にある、白川先生(海星)、伊藤先生(進学館)、竹内先生(協立高校)、わたし。それにマリア会の野口先生(海星学園理事長)当時、元会計主任の末吉先生に座談会形式の「原爆回想談」を語り合って頂いて録音した。

『海星八十五年史』

『海星八十五年史』文中に登場する「わたし」は、すべて橋本先生自身である。先生は編集後記に、こう記している。

『はじめに、本書の「目玉」というべきものは、ほとんど記録らしい記録の残っていない「原爆前後」の、海星を中心とした人たちの動きを書きとどめておきたいことだと書いた。書き終わって振りかえって見ると、満点とはいえないまでも、およそ目的は果たしたと思うのである。
けれども広い世間の出来ごとを数人の座談的回想にたよるだけで完璧を期するのが無理なことは言うまでもないことだし、書いたあとで思い出したこともあったりして、人のもつ潜在意識の広範さに、今更ながら驚いている。いつの日にか、それらをまとめてまた書ける機会があるように願いたい。』

平成の海星ブログに綴る

今日から3回に分けて、『海星八十五年史』に記述されている1945年あの日までを、海星ブログで綴る。125周年記念誌に携わらなかったら、過去の記念誌をじっくりと手に取るという機会はおそらくなかった。

面識はまるでないが、太平洋戦争開戦翌年から昭和57年まで同じ海星で教壇に立っていらっしゃた橋本先生は記念誌に以下のように編纂し記されている。

注:日本は制空権を失っており、前年1944年にはすでに日本本土空襲を受けています。沖縄戦は1945年3月から始まっている。

以下、原文のまま1945年6月から。

1945年6月

海星が敵機の機銃掃射を受けた。

敵機は稲佐山をかすめて市上空に侵入し、一直線に海星の屋根とすれすれに飛びながら、機銃掃射をして唐八景方向へ飛び去った。

窓からのぞくと、校庭に薬莢が落ちていた。取りに行こうとすると、机の影にしゃがんでいた木下老大尉(配属将校)が、「あぶなか。もう一度、来ますばい」という。ほんとうにその通りであった。

今度も二機で、物すごい銃声が窓のすぐそばを通り過ぎたような気がした。机の影にしゃがみながら、あまりにもわがもの顔にふるまう敵機に対して、腹が立ってしょうがなかった。午後四時ごろで、校庭に生徒の影が一つもなかったのはせめてもの幸いだった。このときの空襲は警報など出る間もないほどの早わざであった。

1945年8月1日

長崎医大付属病院が爆撃された。「非人道的なー」と切歯扼腕、大憤慨したのであったが、それが戦争なのだと現実を見せつけられただけの事だと、悟るよりしようがなかった。

1945年8月7日

運動場にいた幾人かの生徒たちが、しきりに天を仰いでいるので、何事かと外に出てみると、無数の小さい紙切れが落花のようにヒラヒラと空に舞っていた。敵機がばら播いたビラにちがいなかった。いつ長崎の上空を通ったのか。

空襲警報も出ず、機影も見えなかったような気がするのであるが、それでも、現に、紙片は目の前に落ちて来た。拾ってみると真白な上質の紙にーそんな紙は、近ごろ、日本ではめったにお目にかかれなくなっていたーオフセット印刷らしい、きれいな漢字とひらがなの混ざった文章で、まず最初に「市民に告ぐ」という見出しで、

「われわれは皆さんを相手に戦ってるのではない。日本軍と戦っているのだが、むだな戦争は早くやめたいから、数日のうちに特殊爆弾で爆撃する。市民は今のうちに避難せよ。」

そんな趣旨のことが書かれていた。生徒も数枚拾っていたので、まとめて警察に届けさせた。広島の話を聞いたばかりの時だったから、ひどく不気味だった。

1945年8月9日

その日の朝、長崎の空には薄雲はあったが、陽光は輝き、せみが鳴き、油照りの一日になりそうだった。

いつもと同じように朝の七時には四年生と三年生が野口先生(国語・漢)【昭和19年ー昭和26年・昭和29年-32年校長・昭和46年ー昭和53年理事長】たちに引率されて香焼造船所行きの通勤船に乗り込んでいた。八時ころには一年生と二年生が学校に集まって来た。この日は長崎要塞司令部からの要請で作業に出勤することになっていたのである。

ところが、朝になって「作業中止」の電話があった。運命の明暗というものは、こんなところにもあるものだ。もしもこの日の作業が予定通り、司令部構内か、または星取山あたりの守備兵陣地で実施されていたなら、浦上地区から来ていた生徒達は全員直接被爆しなかったのである。午前十時に下校させたので、生徒達は十一時ころにはほとんど家に帰り着いていたのだった。

その生徒達(一年生二年生)の作業の係だった木下大尉と亀川先生(社会科)とは、その時刻、午前十一時過ぎたころ、ちょうど中通りを八幡町の方へ向かって歩いていた。二人とも住居が片淵だったのである。亀川先生は閃光を感じ、そしてすぐ近くに爆弾が落ちたような音を聞き、爆風らしいものに頭を押しつけられたような気がしたので、あわてて側の軒下へ逃げ込んだ。ところが木下大尉は腰のサーベルをガチャガチャ鳴らしながら平然と歩き続けていた。木下大尉は耳が遠く、ものに動じないでの有名だったのである。

学校ではその十一時、川上校長とわたしとは校庭の地下壕の御真影奉安所の前にいた。帯剣銃装した奉護の四年生、二人が同席していた。教練の「助教」として毎日二人ずつ交替で来ていたのである。川上校長が、「十一時を過ぎたから、校内を一巡してくるよ。」といって壕を出て行って、一分とはたたなかったろう、もの凄い爆発音と震動、爆風が壕内を襲ったのは-。わたしたちは顔を見合わせた。

爆弾だ、すぐ近くに、相当大きいぞ。どの顔もそう言いたげだった。校長の安否が気になった。しばらくたって、二年生が一人、駆け込んできた。

「浦上が燃えよります。ものすごい煙です。」

ひどく興奮している。そこへ校長が戻って来た。顔面蒼白、腕に幾か所も血をにじませている。理化学館の入り口のガラス戸を開けた途端、ピカリと来、ドスン、バリバリとガラスが砕け飛び散った。校長は壁にからだをたたきつけられたそうである。腕には無数のガラスの破片が突きささっていた。

ー次回8月7日【月曜】更新(つづく)

※文中に登場する海星教員の担当教科・奉職期間は原文にはありません。

昨日教室から望んだ稲佐山。この山頂をかすめて一直線に飛来した敵機二機が、海星を銃撃した。

昨日の上グラウンドから唐八景方面を望む。

銃撃後、敵機の薬莢が落ちていた。その薬莢を取りに行こうとすると、机の影にしゃがんでいた木下老大尉(配属将校)が、「あぶなか。もう一度、来ますばい」という。ほんとうにその通りであった。唐八景方向に飛び去った二機は再びUターンして飛来した。